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 D I A R Y

深海 2018,03,24

久しぶりに日記を見返した。
今、深い海の底にいるようだ。
とても暗い。
皆はどこに行ってしまったのだろう。
近くにいるようで遠くに感じる。
繋がっているだろう明るみに着けば、
皆と会うことができるのだろうか。

明るい所は怖いが、暗い所は寂しい。
武器に願いをも、もう少し明るくなって欲しい。
そのためには私が泳がなければならない。
恐怖や不安、怠惰が体を硬直させるが、
ひとかきだけでも上へ。



武器に願いを2 2016,04,08

自国のボスを天使に、各ステージのボスを悪魔にしたのは、自国の都合のよい解釈を演出するためである。
「武器は語らない動かない」とあるが、委ねた武器が思い通りに動くのは、皮肉である。
「それが僕の役目」としながら、「武器はあなたに全てを委ねる」としたのは、迷い故である。
人生の岐路に立った時、「好む」という理由は、やはり迷いであろう。

武器に願いを2で使用させていただいた素材提供者の方々に、また、武器に願いを2を宣伝して下さった方々に、心から感謝申し上げます。

武器に願いを2が多くの人の手に届くことを心から願います。
次回作という選択肢を選ぶその時まで。



武器に願いを 2014,08,16

純粋な理論はいつしか権力者の手に渡り、役立つものだけが利用される。往々にして理論は権力者の謂わば武器のような存在であり、悲しくも人は「武器」を欲しているのである。
この作品に表される武器は剣や槍に象徴される具象化された武器を意味するだけでなく、概念的な武器も含まれている。例えば言葉や文字も一種の武器であり、相手の精神を傷付け破壊する。これら武器は人類が文明を築き育て続けるのに無くてはならない存在であり、同時に文明を否定し破壊することにも使われる。そういった「武器」を産み出す存在とは如何なるものなのだろうか。それがこの作品のテーマの一つである。



大人 2014,04,14

大人になるということは見ないことである
大人になるということは聞く振りをすることである
大人になるということは考えないことである
いったい誰が批判できるというのだろうか
おかしいことをおかしいと言えず
正論という青臭さをポケットにしまいこみ
仰るとおりですと返答する
あぁ、この文章はなんて幼稚なんだろう!



REAL LOVE OVER LIE 2013,11,04

REAL LOVE OVER LIEというゲームのプレイ動画を見つけた。覚えてくれている人がいることにとても嬉しく思った。幸せとは、こういう小さいことを言うのかもしれない。



SNSの影響力について 2012,10,22

今やネットが実社会に与える影響は無視できなくなっている。あらゆる機密文書が電子化され、ネットワークに置かれている今、私は関係ないと見て見ぬ振りをすることは賢い選択ではない。

しかし、SNSには懐疑的である。カリスマ性を持った人物はこの世にいるだろうし、彼らが発言したつぶやきは、多くの人に影響を与えるだろう。しかし、大きな渦となって歴史に語り継がれるような事物は起きていない。もちろん、大きな渦とは一体どの程度のことを言うのか、人の価値観によって各々だから、断定をするつもりはない。しかし、一つだけ言えることは、私は影響を受けていないということである。

ネットに漂流しているユーザを新たなる創造の道具とし、その流れにベクトルを持たせ革命を起こす、といった物語がよく描かれる。非常に面白いとは思うが、どうしても解せない。文字には力がある。人を感動させたり、憤慨させたりする。しかし、次第にその力は衰え、「文字」が文字通りのものとなってしまう。なぜ人は同じ過ちを繰り返すのか。歴史書に何度も書かれた警告が、なぜ守られないのか。それは文字だからと答えるのは軽率だろうか。

私は文字が好きである。好きであると同時に嫌いでもある。SNSから生じた何かが、この先大きな力となれば面白いとは思う。でも、どうしても懐疑的なのである。



ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS) 2012,10,6

だいぶ前からSNSが流行っている。mixi、Facebookなどなどたくさんある。皆に問いたい。

人はなぜSNSに登録するのか。

学校、職場、家族、友達、自治体、PTA、ママ友などなど、実社会でもコミュニティは存在し、その多くは疲れを齎す。疲れて家に帰り、SNSでも疲れる。疲れてまで登録する理由は如何に。

心から楽しんでいる人は否定しない。しかし、何となく登録した人はなぜ登録する? そんなこと考えたことがないと言うだろう。果たしてそうだろうか。私はそれは違うと思う。考えないでSNSを登録する人はいないと思う。そう、皆考えて登録している。何を考えているか。

人と繋がりたい。幸せになりたい。

嫌なことがあっても、悲しいことがあっても、それでも1%の確率にかけて、人と繋がり感動を得たい。幸せを願ってSNSに登録しているんだと思う。ここで一番の問題がある。SNSで幸せを得られるだろうか。

友達とコミュニケーションをとるなら、何もSNSじゃなくても良い。SNSの一番の特徴は、遠い友人に出会えることである。遠い友人とは、古い友人や友達の友達、ネット友人などである。彼らと積極的に会いたいと思っているなら、SNSは有効かと思う。しかし、望んでいない出会いがあるなら止めたほうが良い。この望んでいないは、無意識の望まずも入る。何を言っているかというと、SNSで生じた憎しみや嫉妬である。SNSで古い友人に出会ったとする。その友人は大企業に勤め、結婚し既に子供がいる。SNSを見るに充実した生活を送っているらしい。それに比べ自分はどうか。情けない。SNSに登録しなければ生じなかった憎しみや嫉妬。小さい人間だとあざ笑うのは容易い。でも私はその小さい人間を笑わない。

SNSを否定はしない。便利であり楽しい面もある。しかし、冷静になって考えてほしい。

なぜ私はSNSに登録するのか。



マスコミ 2010,5,23

新聞も読まない。テレビも見ない。そんな人が多くなったと思う。そういう私もそんな人だ。なぜ読まない見ないかって? それは彼らの伝える情報が歪んでいるからだ。情報を正確に伝達することの難しさは良くわかるが、新聞やテレビは伝達者の思いが五月蝿すぎる。幸い今は新聞やテレビに変わって、インターネットから情報を入手できる。新聞やテレビはもういらない、とまでは言わないが、少しずつ規模は小さくなるだろうし、もっと小さくなって良いと思う。

もちろん、インターネットにも欠点はある。インターネットの方が情報が歪んでることもある。ただ、インターネットの良いところは情報が複数あることだ。一つの情報に対して、あらゆる切り口を教えてくれる。これは非常に大切なことだと思う。つまり、ある情報を複数の視点から接することができるという点で、インターネットが優れているということである。ちなみに、テレビのチャンネル数が複数あるというのは、あまりにも浅はかな考えであることを付け加えておく。

ところで、ウィキペディア - Wikipediaを参考にしている人が多いと聞く。確かに私も参考にしている。しかし、過信するのは危険かと思う。記載内容の正誤を気にするのはもちろんだが、仮に正しい情報が記載されていても、それを鵜呑みにして、まるで正解がそこにあるかのような錯覚に陥っているなら、ウィキペディアの使用を控えたほうが良いと思う。ググれも危険である。インターネット上に必ず答えがあるかのような言葉だ。まぁ、それでも新聞やテレビに比べればまだ良いと思うが。



生きる 2010,5,16

戦国時代の百姓。
彼らは生きるために生きていたように思う。

今はどうだろうか?
夢や目標を捜し求め、生きるとは何かを模索している。

生きるには。
生きるとは。



桜 2008,3,30

桜咲いて散る。
人も同じ。

一枚の花弁も、雨に打たれ、風に揺られ、地に落ちる。
その一生は短いようで長い。

時は有限にして無限。
人は何を見て我が身を思うか。



治水 2007,12,4

必要のない堤防とは如何なるものか。数学のように綺麗な理論なら、話は早い。過去の出水をデータ化し、必要な強度の堤防だけ作ればよい。しかし、現実は何が起こるかわからない。100年に一度の洪水に耐えうる堤防とは如何なるものか、正確に答えることは前提根拠が曖昧なだけに不可能と思う。

カスリーン台風を資料の欠けた見せ掛けの台風とあざ笑うのは簡単だ。しかし、決壊後の恐ろしさは事実であり、決壊は避けなければならないという心持になる。スイスの堤防は3次堤防まで含めると250年洪水を耐えるといわれている。(鉄道の線路を含めれば1000年洪水をも防ぐといわれている) 大洪水を防ぐ堤防の信憑性を疑う前に、どんな洪水でも防がなければならないという姿勢を勉強したい。

利根川上流右岸(136k付近)が破堤すれば、川の水は埼玉県東部をとおり、東京都に達する。東京都に住んでいる方は、この事実をどこまでご存知だろうか。

災害の歴史は人の歴史でもある。先人は自然を愛し慄いた。そして、自然から離れられないことを知り、共に生きることを考えた。川と共に生きるには何が必要か。多くの人が治水について考える時代がくることを望む。



より良く生きること 2007,10,31

人は、より良く生きることを欲して止まない。左に温かいスープがあれば、スプーンを求め右を探す。

人は事を型に嵌める。「生きる」ことも型に嵌める。型に嵌めれば仕切りができる。仕切りができれば、限られる。

結局は人の思考も型に嵌める作業に過ぎないのだろうか。より良く生きるには、生きることを思考しないことなのか。

資本主義という型に嵌った現在において、より良く生きることの希求は、容易なようで困難であると感じる。

そして、このような議論もただ型に嵌めているに過ぎないという、虚しい結論だけがわかる。

気付くと足が冷えていた。



秋 2007,10,23

焦燥感が漂う。
何が足りていないのか。

なんてことはない。
昨日と全く同じ今日に、
苛立ちを覚えているだけ。

何がしたいの?
わからないまま時は流れ、そしてこう思う。
これで良かったのだろうと。

無意味を自覚しながら、なぜ生きる。
それこそが生きる証か。

秋深まれば、心も染まる。



参議院選挙 2007,7,30

言葉遊び。
不立文字。

年金問題が多く騒がれている。許されない間違いとは。間違いを正すシステム構築はどこへ。結局何がわかったかといえば、皆自分の年金に必死ということ。

今、価値は何で測られているか。
それが良くわかる選挙であった。



公共事業 2007,6,18

公共事業は自然破壊か。否定はしないが、その一方通行な解釈は悲しい。

世論は怖い。
真実が嘘になる。
現実が夢になる。



公案 2006,10,15

趙州和尚。因に僧問う。狗子に還って仏性ありや也た無や。州云く、無。

無とは如何なるものか。
空間の外に無が有か。無が有か。
不立文字。



偽情報 2006,10,14

情報に溢れたインターネット社会にて、昨今情報を取り扱う際に生じる責任の追求が行われている。情報を誤って取り扱った場合の損害は誰にあるか。一つに情報を受け入れた側。もう一つに情報を発信した側。この両者の間で、無秩序に意見が取り交わされ、情報はさらに肥大する。情報とは如何なるものか。その情報が発生した経緯。その情報を活用した動機。悪意か善意か。情報といっても偏に定義付けることは非常に難しい。当然過失がどちらにあるかが問われるだろうが、過失とは如何なるものかが問題となる。偽情報を発信すること即ち過失があると短絡的に繋げるのであれば、すぐにこの文章を読むのを止めていただきたい。上記下記情報は、たった一つの情報であって回答ではない。この情報も誤った情報の可能性があることを認識した上で、適切に情報を取り扱って頂ける読者にのみ、この文章を読んでいただきたい。一つの情報を述べるのに、上記のような注釈を入れなければならない昨今の状況について、苦笑せずにはいられないが、情報の取り扱いは非常に大事なことなので、くどい様だがもう一度述べさせていただく。

「偽情報」の「偽」という文字が付いたのみで偽情報であると判断せず、何を以って偽なのか吟味し、表面上の情報に踊らされず、自らの判断で以って情報を取り扱うことができる読者にのみ、この文章を読んでいただきたい。



それでも僕は 2006,5,14

思うことあり。
されど行うこと怠る。
悲しきことあり。
されど止めること怠る。
生きるための術を知り、
あの頃には戻れぬと、
盲目なりて前に進む。



夢 2006,2,12

宇多田さんが歌っていた。「公務員だなんて言うな 夢がないな」 夢とは如何なるものだろうか。公務員という漠然な夢は如何に。明日という夢は如何に。生きるという夢は如何に。

生きることも一苦労だが、それでも見つけたちっぽけな夢。でも、それは誰からも理解されない夢。社会が許さない夢。夢が夢でなくなるとき、人は昨日見た夢のように、夢を忘れることができるのだろうか。

社会は合理的である。



算盤 2006,2,5

いつからだろうか、算盤が家庭から消えた。

算盤も伝統工芸になってしまった。

計算のみならず姿勢も教わった算盤。

しかし、悲しいことに、算盤職人の算盤を創る姿を見て感動はするが、算盤が欲しいとは思わなかった。

私は間違っているのだろうか。



堀江前社長と宝泉院 2006,1,29

命やはうきなにかえてなにかせん
まみえぬために送るきりかみ

宝泉院。
森可成の娘、木下勝俊の室、俗名うめ。
名声か命か家か。
何を重きに置くか。
考えの違いと永の別れ。
断腸の思いだったか、
一世一代の決断を下した長嘯子に妻うめが送りつけたものは、出家の際に切った髪とこの歌だった。

現代の人は何を以て生き永らえるのか。

投資によって得られたものと、
投獄によって失われたものと。
また、その反対。

生のための金と、金のための生。

文字を覆すだけで如何に違うか。
当時も今も、この違いに苦しみ、永の別れを選んだのか。

「ものを創って人を創らず」とは言ったものだが、今ではものさえも創っていない。

金を作って人を作らず。ものをも見ず。



仕事と介護 2006,1,3

日本の総人口が戦後初めて減少した。子供を産まなくなったためか。結婚しない人が増えたためか。わからないが、原因は一つではないと思う。

仕事と家。部活と勉強以上に難しい両立。何が難しいか、掃除か洗濯か、もしくは料理か。

どれも違う。介護だ。

我が両親の世話だけでなく、結婚をすれば相手の両親の世話もしなければならない。大概、相手の両親とは何年も会っていないだろう。そう他人である。他人といっても、戸籍上の他人ということではない。人間の心理的な意味での他人。自らのテリトリー内に入ることを許せない存在。そんな他人の中の他人と急に介護のためだからといわれ、一緒に生活をすることができるだろうか。仕事で疲れて帰っても、介護でまた疲れる。さらにその相手が他人であれば、その疲れはストレスに変わり、職場でも家庭でもストレスを溜めることになる。世間も冷たい。介護は当然という。我々を産んだ親を、いくら相手の親とはいえ、介護をしないことは相手も世間も許さない。

介護に努め、会社に勤める。これは我慢ではない、我慢であってはならない。当然のこと。

上のように悩まない人もいるだろう。そう、老人ホームという便利な施設に入所させればよい。便利を求める世の中であれば、その施設の存在も理解できる。しかし、人は親を老人ホームに入所させることを即断しない。便利だけでは釣り合わない、絆という非合理的なものの存在。罪悪感というべきか、後ろめたさを人は感じる。

その戸惑いのなか、多くの人は二つの選択肢からどちらかを選ぶ。一つは、自らで親達を介護する。一つは、親達を老人ホームに入所させる。

ここで決め手になるのは何か。それはもう一つの人生というべき「仕事」である。人は様々な種類の仕事を行う。楽な仕事もあれば、苦な仕事もある。19時前に帰ることができる仕事もあれば、0時になっても帰れない仕事もある。春だけ忙しい仕事もあれば、一年中忙しい仕事もある。全ての仕事は「仕事」というカテゴリに括られる。しかし、人はどこかで苦な仕事と楽な仕事を分けている。そして、自らの仕事は苦な仕事であると判断したとき、

人は介護を拒否する。

罪悪感を胸の奥底に置き、仕事を理由に介護を拒否する。さて自らがより良く生きるためには、どのような選択肢を選べば良いのだろうか。

自らで親達を介護する場合は、特に記述しない。

老人ホーム入所させる場合。まず、介護保険の早急な申請。ケアマネージャーに相談。(在宅介護支援センター等) 要介護度の認定結果。しかしどの老人ホームも予約待ち。緊急なら短期入所サービスだが、あくまで短期。(それでもすぐに入れない場合も) 例え養護老人ホームに入所できたとしても、出てきたらすぐにヘルパー。また予約待ち。有料老人ホームも選択肢に含めようとするが、あまりの金額の高さに驚く。(養護老人ホームは、低所得で身寄りがなく虚弱であるなど、居宅での生活が困難な高齢者を対象とする入所施設とはいえ、有料老人ホームとあまりにもかけ離れている)

老人ホームに入所させようといっても、すぐにはできない。諸手続き、諸要件を満たし、ベッドが空けば入れるというのが現状。

今後、老人が増える。高齢化社会。老人ホームという事業が儲かるのであれば、有料老人ホームは増える。入所する老人はお客様となり、そのお客様に対して丁寧な対応ではあるが、画一的な機械的な扱いとなる。より利益を出すため、合理的なシステムを構築し、金額も各自治体の介護保険より少し高い程度になり、養護老人ホームの予約待ちの間、有料老人ホームに入れておきやすくなる。

そうして人は、親を老人ホームに入所させることにいつしか躊躇わなくなる。

仕事と家。家を守る人、守れる人、守らない人、守れない人。仕事を優先する人、優先しない人、優先させられる人。仕事を理由に介護を拒否できる人、どんな理由であれ介護を拒否することは他人であろうと許せない人。何が正しいか、世間か、自分か。少なくとも一つ言える事は、今の日本は便利だが住みにくい。

いつしか高齢化社会は終わる。お客様である老人が減れば、老人ホームも減る。そのときがいつ来るのかわからないが、そのときまでに誰もが納得できる「介護」が見つかれば良いが。

総人口が減り、総生産も減り、日本の先進国は名ばかりの存在になってしまった。そのとき、日本は本当の豊かさを見つけることができるのだろうか。政府、国の問題ではない。日本人一人一人の考え。変える必要はない。その考えを包む何か。それが見えてくれば日本も住みやすくなると思う。

今の日本人は一体何を求めているのか。元旦から働く日本人の姿を見ていると、複雑な気持ちになり切なくなる。何が正しいのであろうか。

初日の出が眩し過ぎて見えない。

息遣いも苦労していた数年前と、生きるための息。呼吸ひとつとっても、このように違うものなのか、それすらも錯覚に過ぎないのか。

高度成長期の日本を否定するつもりは毛頭ないが、肯定するつもりもない。



忘却 2004,11,7

忘却とは忘れ去ることなり。
忘れ得ずして忘却を誓う心のかなしさよ。
【菊田一夫 「君の名は」】

忘却を意識すると記憶を働きかけることとなる。よって、忘れることは行為をしないことの十分条件である。忘れるには、忘れようとする意識さえ忘れる必要がある。この無為は精神の内側で起こることであり、精神の内側は何も自らの手で行うことのできない領域である。したがって、忘却は行為ではなく、精神の内側において、忘却という出来事が来るのを待つ他ない。

「恋における喧嘩の最良薬は忘却である」と言うが、偶発的に起こる忘却という出来事を待つまで仲直りできないとは、何とも不確定な最良薬であると言わざるを得ない。忘れ得ずして忘却を誓う心のかなしさよ。



惑星アトン外伝 2004,6,13

惑星アトン外伝というディスクシステム用のゲームがある。国税庁が開発したソフトで、税を多くの国民に知ってもらうために作ったとか。ジャンルは、税とは無縁のシューティング。奪われた税金を取り戻すというあってはならない話。敵を倒すと税金を徴収できるという、短絡的な設定。極めつけは、所々に出題されるクイズ。「さかなをとることをなんというか?」という問いに対し、「1.のうぎょう 2.ぎょぎょう 3.りんぎょう」の三択問題。子供から大人まで、なんだこりゃと思う一品。だが、このしょぼさがいい。

人間は、自らをさて置いて無駄を語る。無駄とは如何に。無駄とは、やはり人間だろう。



ディズニーシー 2004,1,17

夢の国に「提供」があることを知った。夢と現実。ディズニーはどっち?



月桂冠 2003,11,3

月桂冠のCM。あのやるきのなさ。「幸せになって、クリ」 心にもないことを。あれくらいの適当さが必要だと思う今日この頃。



無題 2003,6,22

歩く努力
歩かぬ勇気



浅はかでありたい 2002,10,8

奥深い作品であればあるほど、作者の意図は知りたくない。だって、そこでおしまいだから。でも、浅はかな作品は違う。これからがあるから。
作者との距離。



人と違ってもいいじゃない 2002,9,10

素晴らしいものを作るより、喜ばれるものを作る。素晴らしいものと喜ばれるものは、お互いに包含関係をなし、等号が成立するかもしれない。しかし、同時に両者の共通部分が空集合となることもある。

この一見矛盾した二つの事実が、本質であるように思う。では、素晴らしいものと喜ばれるものの背景が違うのか? もしそうなら、比べる事の意味をなさない。よって、矛盾していても矛盾していない。しかし、現実に事実としてこの両者が密接に絡み合っている。

このような事実を前にした時、両者を引き離して語ることは机上の空論である。この何もかも矛盾した物事を証明するには、考え方の違いであることを言えばよい。これこそ、物事の本質であり、定義である。よって、一人一人が大切な存在なのである。

では、この定義に従って、素晴らしいものと喜ばれるものを考えてみよう。素晴らしいものは、人の集団から生まれる一種の定理であるが、喜ばれるものは、一人の人間から生まれる定理である。もうお分かりだろう。喜ばれるものこそ、定義の意図するところである。よって、素晴らしいものを作るより、喜ばれるものを作るのである。



作品 2002,5,24

非の打ち所のない作品は、
それはもう素晴らしくて、
ただ、そのままを受け入れて感じればいいけれど、
完璧すぎて、
何も考えずに終わってしまう。
欠陥の多い作品は、
それはもう穴だらけで、
いろいろと自分で補う必要があるけれど、
そうしていくうちに理論武装され、
思い入れも大きくなり、
作者と自分の、
もう一つの新しい作品として、
いつの間にか、なくてはならないものとなっている。
どちらがいいと言われれば、
どちらもいいと言うしかないし、
言っても仕方がないことだけど、
それでも作者の気持ちは変わらずに、
その作品の中に潜んでいるのだから、
作品そのものを通じて、
作品の思い入れについて、
あなたと私が繋がる事もできるのであって、
その繋がりを教えてくれる作品を、
良い悪いと判断するのは、
浅はかなように思える。
何を思ってか、
作品はそこに存在して、
人々の繋がりを、
見守りつづけているように思える。



子供達の見つめる先には 2002,5,5

最近、大人のマナーの悪さが指摘される。大人のマナーを見て育った子供達のマナー違反行動を、情けないと批判する大人達は、浅はかで無責任だろう。

先日、あるマンションの前で、知り合いのおばさんに会った男の子が、挨拶が終わった後も、後ろを振り向いて、その知り合いのおばさんを目で追っていた。私はそこに、その男の子のやさしさを感じた。そのとき、一人旅行で青森に行ったときのある体験と重なった。駅に降りて、ある男の子に道を尋ねた。男の子は自信無く説明し、実際良くわからなかった。御礼を言ってその男の子と別れると、私の後をある一定の距離を置いて追ってくる。私の曖昧な顔に察したのだろうか? 目的地に着くと、男の子は遠くから私を見つめていた。恥ずかしそうに遠くの私を見つめた男の子を、今でも昨日のように思い出す。たとえ周りの大人や環境が違っても、子供達の想いは変わらないのだろう。

大人を見て子供は育つといわれる。少数のマナーを守らない大人を見て、それを見て何も注意しない大多数の大人を見て、子供達は何を思うのだろうか?



夢 2002,3,23

貪欲なまでに子供たちに要求する大人たちこそ
夢を持つべきである




 

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